楷書の成り立ち

文字にはいろいろな書体がありますが、その中で楷書は書きやすく見やすいという点において

非常に優れたものです。基準となる書体として、今日では活字などに広く使われています。

楷書の誕生

 楷書の「楷」という文字は、クヌギやナラににた木のことを意味しています。この木の枝が左右八方に整然とした枝ぶりをしていたことから、一点一画を整えて書いた文字を「楷書」と呼ぶようになったといわれています。

 楷書は中国・漢代かんだいに盛んに書かれていた八分はっぷん隷書れいしょの一種)の用筆や字形が変化したものであるとされています。八分は波磔はたく(横画や右斜画にみられる、波の形のような払いのこと)をもった書体のことで、楷書が誕生するまでは公式な書体として使われていました。

後漢ごかん中平ちゅへい二年(一八五)に建立され、みん代に発見された『曹全碑そうぜんひ』は代表的な八分です。なめらかに流れる波磔と緊密な点画の構成から隷書の「神品しんぴん」と讃えられてきました。

 しかし、時代が下がるにつれ、装飾的な波磔を持つ八分では、より速く文字を書くことができないにで、だんだん波磔を省略して書くようになりました。それぞれの時代で、より効率よく文字を書くことが追求され続け、その過程の中で楷書を始めとしたさまざまな書体が誕生したのです。

 今日私たちが使っているような楷書が完成されたのは、とう代になってからといわれています。唐代は、約三百年にわたって安定した国家体制を保ち、経済や文化が大きく発展した時代でした。特に、二代皇帝の太宗たいそうの時代には学問や芸術が盛んで、太宗自身も書道を愛好し多くの作品を残しています。

そして、この時代には褚遂良ちょすいりょう欧陽詢おうようじゅんなど、書道史に名を残す能筆家が多く輩出されました。

 欧陽詢の『九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい』は「楷法かいほう極則きょくそく」と呼ばれるほど完成度の高い楷書で、現在でも学書の手本として広く使われています。

いろいろな楷書

 新しい書体は一朝いちょう一夕いっせきに誕生すものではありません。時代の求めに応じて改良が加えられ、より実用的でより美しいものへと進化していきました。楷書も隷書からの発展の段階で、多くの種類の楷書が登場し、そして、淘汰とうたされてきたのです。

 誕生して間もない頃の楷書は、文字が非常に小さいので「小楷しょうかい」とも「細楷さいかい」とも呼ばれています。小楷の代表的な作品として三国時代・鍾繇しょうようの『薦季直表せんきちょくひょう』が挙げられます。隷書の趣を残した扁平な字形で、素朴な味わいの楷書です。

王羲之おう ぎしの楷書も小楷の流れをくむもので、『楽毅論がっきろん』『黄庭経こうていきょう』など上品で優雅な書ばかりです。

 北魏ほくぎ時代の楷書は、「龍門二十品りゅうもんにじゅっぽん」に代表されるように、角ばった点画を持った力強いものです。『牛橛造像記ぎゅうけつぞうぞうき』を始め、『始平公造像記しへいこうぞうぞうき』など野性味あるれる豪快な書です。

 隋代から唐代初期になると、より洗練された楷書が登場してきました。欧陽詢の『九成宮醴泉銘』、虞世南ぐせいなんの『孔子廟堂碑こうしびょうどうひ』褚遂良の『雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ』などに見られるように、今日私たちが使っているような楷書が、この時代に確立されたといわれています。

 彼らに続く能筆家が顔真卿がんしんけいです。顔真卿は政治家としても活躍した人物で、その独特な書風は「顔法がんぽう」と呼ばれ異彩を放っています。

一点一画に力を込めて書き、向勢(向かい合う縦画を外側にふくらませて書くこと)の字形が特徴的です。顔真卿はそれまで王羲之の書風が主流であった時代に、非常に個性豊かな書風を確立させたのです。

 ひとくちに楷書といっても、用筆や結構けっこう(点画の組み合わせ方)は時代によって異なり、その違いが書風をかたちづくっているのです。

行書の成り立ち

 行書は、私たちが普段の生活の中で書いている書体です。

 楷書よりも速く書くことができ、かといって草書ほどくずしたものではないので

 読みやすく、実用に優れています。

行書の誕生

 書体の特徴をとらえた言葉に、「楷書は立つがごとく、行書は行くがごとく、草書は走るがごとく」というのがあります。楷書には直立しているよ端正さや固定されていた感じがありますが、行書には人が歩いているような動きがあります。

しかし、草書のような激しい動きではなく、ゆったりとした動きである、というような意味です。この言葉のように、行書は楷書と草書の中間的な書体としてとらえられています。

 行書は、楷書と同様に隷書れいしょを母体としているといわれています。楷書を崩したものが草書と考えられがちですが、楷書も行書も、母体となったのは隷書なのです。

 行書の発生を歴史的にみると、隷書が盛んであった後漢ごかん時代にあるようです。隷書の点画を速書きにしたような文字が、敦煌とんこうなどから発掘された「木簡もっかん(木片に文字を書いたもの)」に見られます。

さらに、三世紀頃になると「行押書ぎょうおうしょ」と呼ばれる文字の書かれた木簡が多く見られます。行押書とは、手紙を書くときに使われた文字のことで、実用に適するように点画を省略して書いたものです。

波磔はたくが残るものの、隷書の華やいだ筆勢ひっせいおさえられ、後の行書を思わせるかのような雰囲気があります。

 このように、行書は完全に書体として確立されたものではありませんでした。しかし、東晋とうしん時代に、王羲之おう ぎしによって用筆や字形が合理的な技法に整理されたといわれています。

王羲之は楷書・行書・草書のいずれにも優れ、現在でも「書聖しょせい」とたたえられる人物です。代表作 『らん亭序ていじょ』は行書の名品です。後の時代になっても、『蘭亭序』を越える行書の名作が出現しないことを考えると、行書は王羲之の手によって完成へと導かれたといえます。

いろいろな行書

 行書は表現の幅が広く、楷書に近いものから草書に近いものまであります。しかし、規範となる行書といえば、『蘭亭序』が筆頭ひっとうに挙げられます。流れるような筆使い、変化に富んだ多彩な線、巧妙な文字のバランスなど、行書の美しさが凝縮ぎょうしゅくされた至宝しほうの作品です。

 とう代初期には、文人ぶんじん皇帝・太宗たいそうのもと、さらに書は発展していきました。太宗自身も書に秀で、『おん泉銘せんめい』などの優れた作品を残しました。また、褚遂良(ちょすいりょう)の『枯樹賦こじゅのふ』、欧陽詢おうようじゅんの『史事帖ししじょう』なども行書の傑作として知られています。

 さらに、時代が下がり唐代中期になると、王羲之おう ぎしの貴族的な書風に対し、革新的な書風を打ちたてようとする動きが出てきました。その中心的な存在が顔真卿がんしんけいで、

それまで多く行われていた側筆そくひつ(筆管を傾けて運筆する筆使い)をあまり用いず、直筆ちょくひつ(穂先が画くの中心を通る筆使い)を主体をした豪快でスケールの大きなものでした。ここで書の流れは一つの転機を迎え、より自由な発想の書へと変わっていくのです。

 この気風を受けて、そう代には黄庭堅こうていけんの『松風閣詩巻しょうふうかくしかん』、米芾(べいふつ)の『蜀素帖しょくそじょう』、蘇軾そしょくの『李白仙詩巻りはくせんしかん』などの傑作が生まれました。彼らは顔真卿の流れを受け継ぎ、革新的な書風を展開していきました。

 しかし、蒙古もうこ族の支配するげんの時代になると、王羲之へ回帰する風潮が強まり、その中で趙孟頫(ちょうもうふ)能筆家のうひつかとして知られています。

宋代以降の書は、王羲之の伝統的な書風を重視する動きと自由で革新的な書を求める動きとに大別されます。それぞれに発展をとげながら書の歴史も動いていったのです。

草書の成り立ち

隷書から草書へ

 漢興かんおこって草書有り」という言葉があるように、

 草書の原型は漢代(紀元前一世紀)に発生したといわれています。

 文字の歴史は、速書きの必要性とともに歩んできたといえます。より速く書くために、点画の連続や省略を行った文字が、新しい書体を生み出してきたのです。草書も同様で、漢代に広く用いられていた隷書れいしょを速書きにしたものが、その始まりといわれています。

このように速書きにした隷書は「草隷そうれい」と呼ばれ、隷書独特の波磔はたくを残しながら、点画を連続させて書くことが行われていました。

 時代が下がるにつれ、草隷の簡略化はさらに進んでいき、やがて、装飾的な波磔をつけた草書風の書体が現れます。これは、のちに、「章草しょうそう」と呼ばれるようになります。

 この章草とほぼ同時代に書かれ、章草風の用筆も見られる草書の古典に『平復帖へいふくじょう』があります。『平復帖』は尺牘せきとく(手紙のこと)として書かれたもので、筆者は西晋時代の陸機りくきといわれています。著名な書家の真跡しんせき(実際に本人が書いたもの)の中では、最も古いものとして有名です。

 紙のいたみみがひどいので、文字を読みとりにくい箇所もありますが、素朴で穏やかな書風が特徴的です。連綿れんめんは行っておらず、一字一字を独立させて書いている点は、王羲之おう ぎしの『十七帖じゅうしちじょう』と同じです。

しかし、独立してかいているとはいっても、筆脈ひつみゃくが滑らかに通っているので、行の流れに心地よいリズムを感じることができます。

 『平復帖』は、隷書に通じるものを残した草書の作品として、書道史上でも稀有けうな存在として位置づけられています。

もう一つの草書の流れ

考古学の発展によって、歴史の謎がいくつも解明されてきました。

草書の歴史も、紙片の発掘によって、新たな事実を導きだすことになりました。

 草書の成立の歴史的過程については、現在も研究が進んでいることもあり、詳細に解明されつくしているというわけではありません。

今後の研究によっては、新たな展開がある可能性もあります。事実、草書の発生系統には、隷書れいしょ草隷そうれい→草書→章草しょうそうという系統と、これ以外の発生系統があることがわかっています。

ですから、今日の草書が、すべて章草から発生したわけではないのです。

 それを裏ずけるのが、イギリスの考古学者スタインによって、ろうらん(中国西部の奥地)で発掘された多数の残紙ざんし(文字の書かれた紙のこと)です。

この残紙は、四世紀ごろのものと推測されており、鑑賞されるために書いたものではないので、筆跡ひっせきは自然で生き生きとしています。

それらの中には、波磔はたくのない、今日の草書とほとんど変わらない文字が書かれていました。また、草書の特徴である、点画の簡略化や、大きく腕を回転させる筆法ひっぽう随所ずいしょに見られます。

 このように、草書の発生系統には、章草という波磔を残した書体の系統と、波磔をもたない書体の系統があるのです。

楼蘭出土の残紙は、後者に属するものですが、さらに興味深いことは王羲之おうぎしの草書とよく似ているという点です。このことから王羲之の草書は、後者の系統が発展したものだといわれています。

そして、王羲之の手によって、二つの系統が整理され、草書の基盤ができ上がったといわれています。

応用

 草書では、楷書のように点画の間隔が均等になったり、対称的に整ったりすることが少なくなります。しかし、点画の間隔が不均衡であっても、文字全体としてはしっかりバランスを保つようにします。

これを、「均衡きんこう」と呼びます。草書を美しく書くためには、この均衡の感覚を身につけることが大切です。

 また、紙面全体に対する構成についても草書は、流れるような筆使いが大きな魅力ですから、紙面全体にも一貫した流れを演出しなければなりません。そのためには、気脈をしっかり保ことが重要になってきます。

書風

 私は、以前から、書聖の書を全くと言って良いほど習った訳ではないのですが、書風が王 羲之(おうぎし)の書風といわれていた事があります。高校の時も知らなかったし、平成15年辺りから少し書道を始めてからかなり経つまで、最近まで、王 羲之(おうぎし)は全く知らなかった。